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25日坂~29浜松

[ 2021 12 11~ ]

■25[日坂 佐夜之中山](静岡県掛川市)



[ 日坂 佐夜之中山 ]


東海道の難所のひとつと言われていた佐夜の中山を行きかう旅人が、松並木の急な勾配の坂道を歩いています。
街道に転がる石は、山賊に襲われた妊婦の霊がのり移り、泣き声を上げたといわれる「夜泣き石」で、旅人が物珍しそうに見入っています。



[ 日坂 夜泣き石があった坂道(2021 12 11) ]


夜泣き石があったといわれるところは、[日坂 佐夜ノ中山]に描かれているように前後に比べれば低くなっていますが、きつい坂道ではありません。
もちろん「夜泣き石」は路上にありません。
菊川の間宿からこの場所へ至るまでの旧・東海道は、尾根の上に広がる小夜の中山といわれる茶畑の中を通っています。
左右の山々にも茶畑が広がっていて、お茶の産地である静岡を歩いていることが実感でき、北側にある粟ヶ岳には「茶」の文字が描かれてるのが見えます。
「茶」の文字は、金谷側から菊川の間宿に下り始めるところで最初に目に飛び込んできます。
その後、菊川の間宿からきつい坂道を上り佐夜の中山の茶畑に入ると、林や建物の切れたところから「茶」の文字が見えます。
「茶」の文字なのでてっきり茶の木で作られたものと思っていたら、ヒノキでできているそうです。



[ 日坂 粟ヶ岳の「茶」(2021 12 11) ]


「茶」の字は1932年にPRのため松の木を植えて作られましたが、マツクイムシの害のためヒノキに植え替えられたそうです。
遠くから見ていると大きさが分かりませんが、広いところで幅170mもある巨大な文字です。
佐夜の山中は尾根の上にある茶畑で、茶の木の並びを見るとほぼ同じ断面形で幅や高さがそろっているので、茶摘みは機械が行っているようです。
しかし、枝が伸び放題になって耕作放棄?されたと思える畑も見受けられます。
茶畑から日坂宿に向けての道は、林の中の狭くて急な下り坂が続きますが、突然国道1号の近代的な高架橋が見え、江戸から令和に引き戻されます。



[ 日坂 国道1号 ]


■26[掛川 秋葉山遠望](静岡県掛川市)



[ 掛川 秋葉山遠望 ]


二瀬川にかかる大池橋を渡る僧侶と、腰をかがめる道をゆずる旅人が大きく描かれ、その後ろには空高く舞い上がっている凧と、笠を揃えて田植えをしている農民もいます。
遠景には秋葉神社のある秋葉山が見えています。



[ 掛川 逆川橋(2021 12 12) ]


[掛川 秋葉山遠望]に描かれているのは倉真川に架かる大池橋ですが、写真はそれより掛川宿寄りの逆川に架かる逆川橋手前から秋葉山方面を望んでいます。
手前に家並みがあるので高い位置から見ないと北に連なる山並みは見えません。
逆川は掛川城の南側を流れる川で、天然の堀として城の守りを固める役を担っていましたが、蛇行が著しく水害が多発したため大正から昭和にかけて改修が行われました。
この改修により大池橋の上流で倉真川に合流していた逆川が、橋の下流で合流するように付け替えられたため旧・東海道と交差することになり、逆川橋が新たに造られました。
昔のこの辺りは、大池橋の名にあるように雨が降ると一帯が池の様相を呈してのかもしれません。



[ 掛川 掛川城(2021 12 11) ]


掛川城は山内一豊が城主であったことで有名(妻が有名?)な城です。
1604年の地震により天守が倒壊し1621年に再建されましたが、1854年の安政東海地震で再び倒壊、再建されることはありませんでした。
その後、1994年に地元の寄付金を得て木造で再現され、掛川市のシンボルとなっています。
天守は標高50mを越える小高い丘の上に築かれ、最上層からは市街を一望することができ、遠く富士山も見ることができました。
掛川は新幹線も停車するですが、新型コロナの影響があったのか観光客はわずかでした。



[ 掛川 十九首塚(2021 12 12)]


[掛川 秋葉山遠望]に描かれた 大池橋の近くに、「十九首」という不気味な地名があります。
940年に平将門と18人の家臣が朝廷から使わされた藤原秀郷により討伐され、その首が埋葬されたという伝説に基づく地名です。
平将門の首塚を18基の家臣の首塚が取り囲んでいます。
都内には、怨念で東国へ戻ろうとした平将門の首が、丸の内に落ちたという伝説がありそこにも首塚があります。
将門の首はいくつあったのでしょうか。


■27[袋井 出茶屋之図](静岡県袋井市)



[ 袋井 出茶屋之図 ]


出茶屋とは簡易な造りの茶屋のことで、旅人が気軽に休息できる施設でした。
茶店の女主人が松の木の枝からぶら下げた薬缶で湯を沸かす傍らで、駕籠かきがキセルに火を入れようとしています。
遠くには馬を引いた人足が袋井の宿へ向かう姿があり、近くには高札にとまる尾の長い鳥も描かれています。



[ 袋井 観光案内所(2021 12 12)]


現在、袋井宿であった家並みの東端に茶屋に似せた観光案内所があります。
袋井宿は江戸から京都のちょうど中間の宿なので、「どまんなか袋井」をキャッチフレーズに売り出し中のようで、案内所にも多数の幟がなびいていました。
茶屋の建物は、昔風のつくりですが周りには家屋が立ち並び、背景に描かれていた田んぼを見ることはできません。
袋井市は”区画整理発祥の地”ということで市内各地で土地区画整理事業が進められ、格子状の幹線道路などが整備されています。
[袋井 出茶屋ノ図]の背景となった雰囲気のある田んぼを見ようとすると、1kmほど東にある旧・東海道の松並木が残る付近まで行かないとお目にかかれません。



[ 袋井 松並木(2021 12 12) ]


袋井市街からはずれると旧・東海道の松並木が残されている区間がいくつかあります。
旧・東海道の原野谷川交差から新屋交差点までの間は、1960年までに国道1号のバイパスが造られ車の流れが転換したため、昔の道の形態が松並木とともに残っています。
道が広げられたところは松並木が切られ、土盛りが撤去されていますが、それ以外のところは右に左に緩やかなカーブを繰り返し、松の木も連続して残り松並木として見られる状態です。
しかし、道沿いには家屋や工場が並び立っているので、その後に広がる田んぼは建物の隙間から覗かないと見ることができません。



[ 袋井 さわやかのハンバーグ(2022 12 12) ]


袋井では静岡県限定ファミリーレストラン「さわやか」に入ることができました。
開店の15分前に行った時には、すでに10組以上が順番待ちをしていて、人気の高さに驚きです。
手作りハンバーグのをいただきました。


■28[見附 天竜川図](静岡県磐田市)



[ 見附 天竜川図 ]


天竜川の中州で船を乗り換える旅人の一行と、客を渡し終えた船頭が船べりで煙管をくわえていたり、竿を持ったまま腰を下ろしている様子が描かれています。
中州の向こう側では、旅人を乗せた船を船頭が操り、その奥には霧の中の黒い林がぼかして描かれています。



[ 見附 天竜川(2022 02 11) ]


天竜川は長野県の諏訪湖から太平洋に注ぐ川で、山間部では激しく蛇行していますが、天竜浜名湖鉄道と交差するあたりから広い扇状地を形成するようになります。
現在ではしっかりとした堤防が天竜川を閉じ込めていますが、昔は支流も多く川幅も一定していませんでした。
旧・東海道の渡しがあった付近も、昔とは流路も中州も形状が変わっています。
現在は渡しの1km下流に天竜川橋と新天竜川橋が架かっています。
天竜川橋は1933年に架けられたトラス橋で、新天竜川橋は1965年に2車線で架けられ、1974年に4車線、2008年に8車線に拡幅された広い橋です。
この辺りから浜松市方面を見ると広い天竜川の河川敷の先に、高さ200mを超えるアクトシティ浜松という高層ビルがよく見えます。



[ 見附 天竜川橋の老朽化(2022 02 11) ]


天竜川橋は歩道がないので、天竜川を渡るためには新天竜川橋を通ることになります。
8車線の新天竜川橋は、多くの車が高速で走り抜けていくので、まるで高速道路の路側を歩いているようです。
歩道から見える下流側の天竜川橋は、戦前に造られた90歳の橋でところどころに老朽化が忍び寄っています。
たまたま見かけた工事は、橋桁と橋脚の接合部(支承)が破断した箇所を修繕するもので、ジャッキで橋桁を持ち上げて破断部材を取り換えるようでした。



[ 見附 見附学校(2021 12 12)]


見附宿は現在の磐田市にあたりJリーグのジュビロ磐田の本拠地で、旧・東海道にもジュビロの旗が街路灯にはためいていました。
街道沿いには1875(M8)年に建てられた見附学校の校舎を見ることができます。建築当初は2階建てでしたが、強引に3階部分を増築した様子が外見からもよくわかる建物です。
松本市の旧・開智小学校よりも古い校舎ですが、見学料は無料でした


■29[濱松 冬枯ノ図](浜松市中区)



[ 濱松 冬枯ノ図 ]


大木の横に焚火の煙が立ち上り、その脇で煙管を吹かしながら休んでいる人足、横を通り過ぎようとする旅人、赤子を背負い野良仕事をしている女が描かれています。
背景には葉を落とした木々の間に佇む農家と、右手には「颯々の松」と呼ばれた浜松名物の松林の後ろに、浜松宿の家並と浜松城が見えます。



[ 浜松  浜松中心部を望む(2022 02 11)]


[濱松 冬枯ノ図]のように、浜松城と「颯々の松」があった浜松八幡宮をほぼ直線上に見ることができる旧・東海道のポイントは、お城から東へ7km以上離れた天竜川付近になりますが、そこからお城を肉眼で見るのは難しそうです。
浜松市街は天竜川の河岸段丘上に広がっていたので、刈入れの終わった田んぼの先に見えたのかもしれません。
天竜川から浜松市街への旧・東海道は県道や国道になっているので、交通量は多く両側は家屋が途切れることがありません。
雑然とした沿道風景が続きますが、馬込川を渡ると道幅が広くなり新しい建物が増えてきます。
交差する道路もほぼ直行し土地区画整理を行った市街地となり、ビルが増えるので浜松城は全く見えません。
板屋町を左折すると浜松駅方面で、特徴的な駅前の円形のバスターミナルが見えてきます。
見た目は面白いのですが、観光客がバスに乗ろうと思うと方向感覚がなくなり、自分がどこにいるのかがわからなくなります。



[ 浜松  浜松駅前の円形バスターミナル(2022 02 13)]


時間があったので、バスに乗り中田島砂丘に向かい、海岸沿いの津波防潮堤を見学に行きました。
波打ち際に行くためには高低差10mほどある防潮堤を越えますが、細かい砂の歩きにくい斜路を登らなければならないので靴の中は砂だらけになります。
防潮堤の天端に立つと広い海と砂浜を見ることができるので、砂だらけになり登ってきた甲斐はありました。
東海地震で想定される津波を完全に防ぐことはできないそうですが、浸水面積は格段に減るそうです。
防潮堤の整備は、地元の一条工務店が300億円もの寄附を受けて実現したもので、地元思いの企業がある浜松が羨ましく思えました。中田島砂丘はウミガメが産卵する砂浜でもあるそうです。



[ 浜松 津波防潮堤(2022 02 11) ]


浜名湖が海とつながる部分はどうするのでしょうか?




<参考資料>